ピックアップシェフ

村山 太一 レストラン ラッセ  3年過ごした『ダル・ぺスカトーレ』で 食べることを楽しむ人生を習った。

新潟―大阪―京都―沖縄―イタリア。 職人になりたくて、行きたい場所を転々と。

田舎育ちならでは豊かな食生活、そしてワイルドな子供時代。

豪雪地帯として知られる十日町市に合併された、新潟県旧中里村が、私の故郷です。いまも豊かな自然がそのまま残る田舎です。そこで生まれ、村で写真館を営む父、母、祖母、兄と私の5人家族で暮らしていました。子供の頃の思い出といえば、友達と自然の中で駆けずり回って遊んでいたことばかりですね。川に潜って、手製のモリで鮎や鯉を捕まえて、川原で焼いて食べたり、ウシガエルを捕まえてきて家で飼ったり(笑)。大きなスズメバチの巣を見つけたら、石をぶつけて落とすとか、田舎の少年ならではのワイルドな日々を楽しく過ごしていました。
私の部屋の窓を開けると、目の前は山です。春にはゼンマイやワラビ、こごみにふきのとう、アケビの木の芽がどっさり取れます。野生のミョウガも取り放題ですし、秋になればキノコもたくさん。そういう自然の恵みがわが家のごはんのおかずになりました。お米と言えば、親戚から日本一おいしいと言われるコシヒカリ、それも無農薬のものがもらえたし、野菜は家の畑で作っていました。当時はそういう食生活について、これが普通だと思っていたけど、いま思えばすごく豊かだったなぁ、と感じます。母は自前の食材をうまく使って、おいしいご飯を食べさせてくれました。料理には化学調味料は一切使いません。食材からでるうまみ、香りだけを生かした和風のおかずばかりです。塩や醤油などの調味料もあまり入れないので、味つけはとにかく薄かったですね。おやつはかりんとうとヨーグルト、それに煮干し(笑)。その3つは好きなだけ食べていい決まりでした。「お腹が減ったー」というと「煮干しでもかじっていなさい」とよく言われました。でも、そのおかげで料理人に重要な《舌》が鍛えられたと思います。社会人になり、都会で働きだしてから、外食で食べるものの味の濃さや、化学調味料の多さには驚きました。体が受け付けなかったですね。食材の仕入れで、ちょっと味見しただけで、どのように生産されたものか舌ですぐにわかります。それも子供時代の食生活のおかげだと思っています。

田舎育ちならでは豊かな食生活、そしてワイルドな子供時代。

一度やると決めたら、どんな困難なことでも必ず実行する性格。

一度言い出したら聞かない子。まさにそういう性格の子供、でしたね。小学生のとき、真冬の吹雪でも一年中半袖短パンで過ごす、と決めたら本当に実行しましたし(笑)、高校3年のときには、夏休み40日間で、北海道一周5000キロの旅を自転車でやり遂げました。家族は誰も止めなかったです(笑)。やりたいことに対しては、周りは見えなくなるぐらい熱く取り組むのに、将来の進路となると、さっぱり浮かびません。両親は公務員を希望していましたが、自分としては全くその気が無かったので、地元のパン屋さんで働こうと思っていました。そうしたらパン屋になるにしてもせめて専門学校は行ってくれ、と両親が勝手に調理師専門学校に申し込んでしまったんですよ。
学校生活では、調理実習がいちばん楽しかったですね。実習は2番での成績で卒業しました。とくに中華料理の時間が面白くて、中華の料理人もいいな、と思いはじめ、卒業後は多くの支店を抱える東京の中華料理店に入社しました。しかし入社3日目で辞めたくなり・・・そのときにはさすがに両親にガッツリ叱られ、残ることにしたのですが、東京から大阪へと店を移動させられ、それでも熱意がわくことはなく、結局、半年で退社しました。
大手レストランチェーン店で働きながらわいてきたのが、「職人になりたい」という思いでした。それも一流の職人に。そこで日本料理の料理人を目指すことにしたんです。何度も門前払いをくらいながら、入れていただいたのは『京懐石 吉泉』。日本一厳しいと言われる修業で知られる京都の超一流店です。3年間お世話になった『京懐石 吉泉』では、料理人としての基礎を全て教えていただきました。まだ修業は続けるべきでしたが、なぜか、「沖縄に行きたい」と思ってしまったんですよ、行ったことがなかったので(笑)。おやっさんに、正直に伝えて「辞めます」と言ったら怒鳴られましたけどね。でも、一度決めたらやらなきゃ気がすまない性格。また高校生のときと同じく、自転車で沖縄を目指しました。

一度やると決めたら、どんな困難なことでも必ず実行する性格。

運命はどんどん転がり、沖縄・久米島で居酒屋の店長に。

所持金は18,000円でした。沖縄を一周しながら野宿です。食べものは畑仕事をしているおばぁに声をかけて手伝わせてもらい、ご飯をごちそうになったり、もらった野菜で野外炊飯です。しかしついに所持金が底をつき、働くことに決め、那覇の屋台村でアルバイトを始めました。店のオーナーに「京都で懐石料理をやっていた」と言うとビックリされ、「このつぶれかかった店を、立て直して欲しい」と言われたんです。その期待に応えて、一週間で店を変え、お客さんがどんどん増えていったんですよ。すると今度は、オーナーに「新しく久米島に出す店をやって欲しい」と乞われ、店長として店の設計段階から任されました。その店も繁盛し、私もイラブチャー(アオブダイ)の寿司を握ったりしながら、すっかり居酒屋店長として、久米島になじんでいき、2年間働きました。
そのころ遊びに行った那覇のレストランでピッツァを食べ、なぜか「イタリアに住みたい」とひらめいたんです。そうなるともう止まりません(笑)。すぐさま沖縄の仕事を辞めて東京に行き、イタリア大使館に向かいました。大使館の方に「イタリアに住みたいんですが、どうすればいいですか」と。向こうは「はぁ?」ですよね(笑)。とりあえず一度行ってみよう、と思いイタリアに向かいました。ちょうどそのころ『別冊専門料理』で、その後働くことになる『ダル・ペスカトーレ』の記事を読んでいました。自分たちで野菜を育て、家畜を飼い、と全て自家製の食材で料理を提供する三ツ星レストラン。「これこそ理想の店だ!オレは将来、この店の料理長になる!」と思ってしまったんですよね。イタリアについた私はすぐにマントヴァの郊外にある『ダル・ペスカトーレ』を目指します。着いた日は大雪、しかもクリスマスイブ。全く知らなかったのですが、12月24~26日はほとんどの店がクリスマス休暇。唯一明かりがついているタバコ屋で、イタリア語で書いた履歴書を見せ「ダル・ペスカトーレ!ダル・ペスカトーレ!」と繰り返しました、当時は英語もイタリア語も全く話せなかったので、タバコ屋のおばさんが何を言ってるのかさっぱりわかりません。しかし当時『ダル・ペスカトーレ』で日本人がひとり働いていたので、ありがたいことに、その日本人・現在南青山『il desiderio(イル デジデリオ)』のシェフ、佐藤真一さんを呼んでくれたんですよ。初めて来たイタリアで、大雪の中で行き倒れになるところを、佐藤さんに救っていただきました。 (後編に続く)

運命はどんどん転がり、沖縄・久米島で居酒屋の店長に。

忘れられない村山家の味 『ニラと卵の味噌汁』。

料理についていろいろ考えてみると、やはり私の原点は、母が作ってくれた家庭料理だと思います。母は毎日欠かさずおいしいお味噌汁を食べさせてくれました。煮干しと昆布で出汁をとり、具を入れ、信州味噌で仕上げる、普通の味噌汁。いつもおいしかったですね。出汁をとった煮干しと昆布が、具として入っているんですよ、煮干しはそのまま、昆布は小さく切って。それも全部食べなさいと言うのが、母の教えでした。ニラと卵は、味噌汁の具の中で、私が最も好きなものです。レシピでは村山家風に煮干しと昆布を具として残してみました。煮込んだ煮干しとやわらかな昆布、おいしい具材になると思います。とくにカルシウムが大事な成長期のお子様に、食べさせてほしいですね。

ニラと卵の味噌汁

ニラと卵の味噌汁

コツ・ポイント

煮干と昆布を約15分煮て出汁がとれたら弱火にし、ニラ、味噌を入れる。 最後に溶き卵を流し込み、ふんわりと固まったら火を止める。 卵を煮過ぎないように気をつけること。

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